私は1972年に医師免許を取得しました。その少し前まであったインターン制度から、広島大学医学部卒業後すぐに医院(研修医)として、産科婦人科学教室へ入局しました。麻酔科へ半年間出向したり、他の関連病院と大学を行ったり来たりしながら研修を積みました。この頃が一番産科のダイナミックな変化が起こった時期かもしれません。
何しろ、妊娠反応は、フリードマン反応といって、医局で飼っている雌のウサギの耳へ患者さんの尿を静注し、その3日後にウサギの卵巣が排卵をしているか否か、麻酔下に手術をして見なければなりませんでした。特に水曜日は胞状奇胎のたくさんの患者さんが、そのフォローに朝イチの尿を持って来られました。検査係が交代でウサギに静注しに行きます。自分で注射したうさぎは、土曜日の午後に手術をします。それがメスを使うことや縫合の訓練にもなりました。
そんな時代ですから、ゴナビスという妊娠反応が出た時には、何と便利なものができたと喜びました。はじめは検査結果が出るのに2日かかりましたが、やがてゴナビスライドで3分でその結果が出ると、もう驚きでした。
超音波もはじめは今のようなエコーではなく、端子を妊婦さんのおなかの上で全面動かしながら像を見ていました。そのうち今のようなBスコープが出来て、その講習に行ったドクターが「胎児が笑うのが見えるんよ」と言って、みんな信じず大笑いしたものです。
ですから、経口避妊薬なんて夢物語でした。私は、そのころ出来たての中用量ピルを吐き気を抑えながら一時期飲んでいました。危険だと知らなかったのですが、私は前兆のある片頭痛の持ち主です。やがて日本でも低用量ピルの治験が始まりました。私も勤務医の時代に大学の主導のもとに、ずいぶん治験をしました。それでも、とっくにデータを出してからも何年経っても発売されません。その間、必要な人は中用量ピルを飲むしかありませんでした。
さらに1990年前後からHIVが世界を揺るがす大問題になりました。すると、もう少しで認可されると言われていた「ピルがエイズを広める」などと、またまたがっかりするようなことが広く言われ、さらに遅れました。
1999年にやっとやっと低用量ピル(OC)が認可されることになりました(国連加盟189か国中ビリです)が、その時に「副作用、副作用」と、マスコミフル動員で危険の権化のように大宣伝されました。もう発売25年になる今でも、生理痛の激しい若い人にOC/LEPを―と言うと、「副作用が」とその母親に真っ先に言われることがあります。「お母さんね、ピルもどんどん進化してね、今は120日に一回生理があればいいというピルさえ出ているのよ」と言うと、皆さん本当にびっくりされます。
やがて緊急避妊薬もやっと使えるようになり、更年期にはホルモン補充療法が普通にできるようになりました。そのおかげで女性の人生はずいぶん助かるようになりました。それらを駆使して、女性たちが元気に過ごせるようにするのが、私たちの務めであります。私自身は、OCは間に合いませんでしたが(何しろ認可されたのが52歳の時ですから)ホルモン補充療法は9年間行いました。今は全く元気です。
性教育バッシングと共にOCがなかなか認可されなかった陰には、宗教右派の政治支配があったと、やっと明らかにされましたが、私の医師生活は名誉棄損の裁判などそれらとの闘いの日々でもありました。