「加害者臨床」と聞いて、みなさんはどのような印象を持たれるでしょうか? これは加害者のためでは決してなく、被害者の権利を守り、回復を支える臨床領域のことを指します。
今回、第一線で活躍されている斉藤章佳氏(西川口榎本クリニック副院長・精神保健福祉士・社会福祉士)に語っていただきました。被害者の立場を尊重した加害者臨床とは何かについて理解を深められる内容となっています。ぜひ、ご一読ください。
「加害者臨床」という領域は、加害者支援や加害者ケアなどと混同されることがありますが、それらとは全く別の領域です。加害者臨床は、被害者支援の一環として発展してきた歴史があります。そのため、大前提として、被害者の存在抜きに、加害者臨床の組み立てはできません。被害者支援と加害者臨床は、車の両輪の関係にあって、あくまで、加害者をケアするのではなく、どのように加害行為の責任をとっていくかについて考える特殊な心理臨床だと理解していただけると分かりやすいと思います。
また、加害者と被害者は非対等なので、加害者が自分の加害行為を克服していく際に、被害者にその負担を求めることがあってはならないという原則があるのも特徴的です。
日本では、加害者に関する臨床はまだ歴史が浅いですが、さまざまな領域があります。例えば、背景に統合失調症などの精神疾患があり他害行為に至ってしまった方や、知的障害や発達障害が背景にある場合などありますが、私が関わっているのは主に責任能力がある上で加害行為を行っている人たちです。「加害者臨床」のほかに「加害者教育」とも呼ばれ、主に加害者の行動変容と、プログラムを通じて自分の加害行為の責任にどう向き合っていくか、ということを扱っていきます。
私たち加害者臨床に関わる専門家は、被害者支援あるいは被害当事者からの協力要請があったときに、その要請をしっかり受け止め、実現に向けて考えていくというスタンスを取ります。従って、私たちから加害者のために協力してほしいとお願いすることはありません。これは加害者のために被害者を消費することになり、本末転倒になってしまいます。
実際に取り組みとして実践していることとしては、例えば「対話のプログラム」というものがあります。そこでは、被害者と加害者の摩擦を減らす試みとして修復的対話という試みを行っています。これも加害者のためではなくて、被害当事者が自分自身の回復のために加害者との対話が必要だと感じてスタートした希少な取り組みで今年で8年目になります。
私も日々の相談や、性暴力に関する本などの執筆などをする中で、「あ、加害者ってこういう人たちなんだ」というのがだんだん分かるようになってきましたが、それは被害当事者や被害者支援に関わっている人にとっても同じような状況があると言えます。
以前、被害者支援の方々から質問を受けたことがあって、加害者はいったいどういう人たちなのだろう? 加害者は刑務所などでどういうプログラムを受けているのだろう? 出所した後にもプログラムを続けるのか?―など質問が殺到しました。、被害者支援に関わる人も、被害者のことだけでなく、加害者についても知っておく必要があるんだと新たなニーズを発見しました。実際、この5年ほどは、被害者支援に関わる人もまた、加害者について知っておく必要があるのではないだろうか、という問題提起がなされるようになりました。被害者支援に関わる方も、加害者臨床について知ることで被害当事者のニーズに応えられるようになる部分があるというのが、知られるようになってきました。
被害者によって反応は実にさまざまです。加害者の情報に触れるだけでフラッシュバックが起きたり、解離症状が現れたりして、もう、絶対その件には触れたくないという方、一生刑務所に入っていてほしいって思っている方、この世からいなくなってほしいと思っている方など、被害者にもいろいろな考え方の人がいます。中には、直接謝ってほしいとか、なぜ私にそんなひどいことをしたのか、と悩む方もいます。面識がない人による被害もありますが、面識がある場合の被害もあります。面識ありのケースだった場合、今まですごく信頼していたのに、なぜそんなひどい、裏切るようなことをしたのかと考える方もいます。面識なしのケースも、なぜ私が選ばれたのかについて理解できない方が多いです。これを「Why Me(なぜ、私だったの?)」と言います。被害者は、このWhy Meに対して、ずっと悩まされるのです。そして、この“なぜ”という問いに答えられるのは、実は加害者だけなのです。そこで、被害者が自身の被害を乗り越えるために対話をしようという動機につながることあります。
なので、被害者には、確かにさまざまな人がいて、少数派ですが、対話を求める人もいれば、直接の謝罪を求める人もいる。とにかく会って、理由を聞きたいという人もいますし、あと、会えるだけでもいいから、会って話がしたいという人もいるので、こうしたさまざまなニーズがある以上、そこに対して加害者臨床が重要な役割を果たすことになります。
性犯罪において、「加害者の他責と被害者の自責」「加害者の被害者意識と被害者の加害者意識」のようなパラドキシカルな現象が見られます。被害者があの日、あの場所で、あんな遅い時間に隙だらけの格好でいたからこんな事件に巻き込まれても仕方ない…などと、加害者は自分が加害行為をしておきながらまるで他人事で、それを棚に上げて被害者を責めるわけです。
一方で被害者側も、やっぱり私が、あんな遅い時間帯に人通りが少ない夜道を一人で帰っていたから、私にも隙があったから悪かったんだ…と自分を責めます。
特に日本では、社会の中にある価値観が「加害者の他責と被害者の自責」を強めてしまっている面があります。例えば、痴漢被害にあったら、被害者は「ここで私ががまんすれば、みんなに迷惑が掛からない」、または「もし、間違っていたらどうしよう」と考えてしまったり、自分が同意なく触られているのに「自分が悪いんじゃないか」と思ってしまうことがあります。
私は、こういった心理が働いてしまうのは、日本人が内包している男尊女卑の価値観が大きく影響していると思っています。幼いころから男尊女卑の価値観の中で育ち、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」という社会から期待されるジェンダー規範に過剰適応しそれを内面化していることが、被害者にも加害者にも自責・他責のゆがみを強化しているのです。
性暴力は絶対的な力関係(権力関係)と、性暴力を温存する構造があると起きやすくなります。そして、加害者は自分よりも小さくて弱い者に加害行為を行います。理由を聞くと、「そもそも相手を人だと思っていなかった」といった意見を聞くことすらあります。
だから、被害者に反発・抵抗されて逆切れしたり、驚く加害者もいます。被害届を出される、その場で腕をつかんで警察に引っ張って行く、といったことをされると本当にびっくりするんです。
なぜびっくりするかというと「え? おまえは物じゃなかったの?」「なんで物なのに、人間である私に対して逆らうの?」という反応です。ほかにも被害者側に女らしさや承認欲求を求めていたら、受け入れてもらって当然であるということを思い込んでいる節もあります。
被害者が女性であるケースが多いので、同じような価値観・教育になじんでいると、私さえ我慢していれば事態は丸く収まるといったことを先取りして考え、自責してしまうということにつながります。もちろん報復を恐れて我慢してしまう被害者もいます。
例えば、鍵が開いているからといって他人の家に勝手に入っていいわけではないですし、「いや、相手も望んでいるもんだと思っていました」という加害者のロジックは通用しません。
こういった性暴力を社会モデルやジェンダーの視点からとらえなおしてみるという試みは非常に重要です。加害者と被害者がそれぞれ「この世界をどのように見ているか?」を想像しながら関わっていかないと、いざ被害者を支援しようとしても、知らず知らずのうちに援助者や支援者がセカンドレイプをしてしまう、といったことにもつながってしまうのです。