1955年10月に東京で開催された第5回国際家族計画会議では、日本医科大学の石川正臣教授が「プロゲステロンによる産児調節」というテーマで講演している。その会議において「最近の避妊技術の進歩」について話をしたグレゴリー・ピンカスの働きかけによって、石川正臣教授を班長とし、関東逓信病院の松本清一(晩年の本会会長)、東京大学医学部産婦人科の小林隆助教授らによって「経口避妊に関する研究班」が発足した。その際、小林がマーガレット・サンガーよりプロゲステロンを提供してもらったという。これを経口的に投与する避妊研究が文部省の研究助成金によりスタートしたものの、プロゲステロンは元来注射薬であり、これを内服する場合は極めて大量投与を必要とすることから、実用不可能という結論に至った。
57年、塩野義製薬は3種類あるステロイドのうち一つであるノルエチステロンを輸入し、10月には、避妊薬としては困難であったことから、無月経、月経異常などの適応をとってノアルテン錠を発売。60年、大日本製薬はノルエチノドレルを輸入し「エナビット錠」を同様の治療剤として発売している。
58年3月8日には京都大学で、同13日には東京大学において、日本産科婦人科学会、日本内分泌学会、日本化学会、日本薬学会等が主催し次のような講演会が開催されている。
*「妊娠に対するノアルテンの作用」タイラー博士(カリフォルニア大学不妊研究室主任教授)
*「ステロイドの化学」ジェラッシー博士(ウエイン州立大学教授)
*「ステロイドの生物学的諸性質」ザファロニ博士(メキシコ国立自治大学)
59年4月にピンカスが来日し、日本における避妊研究は一層高まり、エナビットの経口避妊薬としての臨床実験はさらに拡大され、広くフィールド実験が開始されている。米国で「エナビット錠(10mg)」が避妊薬として承認されたのが60年のことだから、わが国での研究も米国に負けず劣らず一挙に進んでいたことになる。米国での承認が決まるや否や、大日本製薬は直ちに避妊薬として厚生省に追加申請し、臨床試験を開始。塩野義製薬はノアルテンS錠を、続いて5月には帝国臓器がソフィア錠を避妊薬として申請した。
厚生省はこれを受けて「経口避妊薬調査会」を設置。非常に厳しい基準を設けて、厳密なデータを申請書に添えて提出するよう各社に要求。61年10月、先頭切って大日本製薬が、その後塩野義製薬、帝国臓器もそろって追加データを提出した。このような企業のスピーディーな対応に戸惑ったのは厚生省だったようだ。