わが国にピルの話を最初に持ち込んだのがマーガレット・サンガーであったことは第2話ですでにお話ししている。実は、日本といわず、この世の中にピルが誕生するには、サンガーの力が不可欠だった。
サンガーらはペッサリーを奨励し、女性たちを救おうと懸命に活動していたが、なかなか成果を上げられなかった。というのは、ペッサリーによる失敗率は、1年間使用した女性100人のうち12人が妊娠するという悲惨なものだったからだ。
避妊用ピル開発が大きく進展したのは、経済支援のための基盤が、キャサリン・マコーミックによって約束されてからだ。彼女は、有名なスパイス会社の相続人であり大富豪だった。1917年にサンガーと初めて出会い、その後、資金援助を惜しまずサンガーの活動をサポートし続けた。
50年の冬のある日、ニューヨーク市では家族計画運動で有名な医師らの集まる会が開かれ、サンガーも招かれていた。その場に、ピル開発の父と呼ばれるグレゴリー・ピンカスも出席していたのだ。
サンガーとマコーミックは、彼に十分な経済的支援をすると約束し、女性にとって安全でより有効な避妊法を開発するよう彼に依頼した。多額の研究費を受け取ったピンカスは、早速綿密な研究計画を立て、女性の生殖作用の核心にじかに働きかける避妊法の開発に取り組むこととなった。妊娠中は排卵が起こらない。この期間には、大量のプロゲステロンが体内で作られ、これが排卵を妨げているからに違いないというのが彼の発想であり、ピルはここから誕生する。
その後、ピンカスは52年に開催された学会でハーバード大学の産婦人科医であるジョン・ロックに出会った。ロックは不妊女性に対して、治療目的で高濃度のエストロゲンとプロゲステロンを注射していた経験から、ホルモンが排卵を抑制し、治療中は妊娠が起こらないことを確信していた。相当な動物実験を繰り返した後、ピンカスはロックに人体実験を求めた。ロックはローマ・カトリック教徒であったにもかかわらず、その後長期間にわたり、家族計画運動を支援し続けることとなった。
54年には、彼の不妊患者に対して、毎月20日間にわたって大量の合成プロゲストーゲン投与を開始したが、この治療中、排卵はどの女性にも起こらなかった。しかし、プロゲストーゲンの投与を中止した後、80人中13人が妊娠した。
55年に東京で開催された第5回国際家族計画会議でその結果をピンカスが発表したのは既報の通りである。