本連載では、この9月に開催する「第5回 災害時の妊産婦支援セミナー」講師 有本幸泰氏に、被災地支援を行う中で見聞き・体験したことを語っていただきます。 一度大規模な災害が起こると、避難所運営・救援物資等さまざまな支援が行われますが、そのさなかで、被災された方々が実は必要としているもの・求めていることなど、見落とされがちになってしまう点も織り込みながらご紹介いただきます。 減災に向けた地域づくりや災害への備えのご参考に、ぜひご一読ください。(編集部)
熱海市伊豆山地区土石流で亡くなられた方のご冥福と、安否不明の方々の早急の確認、お住まいの方の復興を願っております。
皆さんは何かあった時にどこに集まるか、家族で、友人同士で決めているだろうか?
私が東北の避難所となった学校で出会った親子がいる。お姉ちゃんは小学校4年生、弟は小学校1年生、私の目の前でお父さんが「寒かっただろう、ごめんな」と涙を流して、2人の子どもたちの手を何度もさすっていた。
兄弟に出会ったのは、理科室だった。理科室にあるアルコールランプで暖を取っていた。聞けばもう2日も2人で理科室にいるようだ。
「お父さん、お母さんは?」
「会えない」
と言う。弟が泣き出してしまった。
「何か有ったらこの学校に来なさいって」って、弟を引き寄せながらお姉ちゃんが言った。
「とりあえず動かないでここで待ってみたら」
無責任な言葉をかけて、後ろ髪を引かれる思いで、次の現場に向かってしまった。
次の日、まだ2人はいた。近所の人だろうか、朝ごはんのパンを2人に手渡していた。寒い中、毛布に包まってパンを食べていた。
その時、ドアの向こうから男の人がやってきた。
「お父さんだ!」
弟は泣きながら叫んだ。お姉ちゃんは夢でも見ているようで、声すら発しない。
「ごめんな、ごめんな」とお父さんは謝り続けた。
お父さんは何処にいたのか、実は同じ避難所になっている学校にいたのだ。2人の子どもは1階の理科室、お父さんは3階の図書室、距離にして200m。その200mが3日間、親子の再会を阻んでいたのだ。
その後、お父さんと話が出来た。子どもたちとは、防災会議やキャンプで有事の際の準備をしていたそうだ。だから何かあったときは「○○中学で」と決めていた。
皆さんはなぜここまでしっかり決めていた親子が会えなかった理由がわかるだろうか?
私は避難所となっている学校へ入った瞬間にわかった気がした。
避難所にとにかく人が多すぎるのだ。避難所の受け入れ人数はどのくらいか把握できなかったが、歩くのに必死なくらい人があふれている。この状況では親子の距離「200m」は遠すぎた。
私はこの経験を生かして作ったものがある。「待ち合わせカード」だ。
あの親子は「○○中学」までは決めていたが、もし同じようにあれだけの人が避難所に押し寄せたら会えないと確信した。だから、「待ち合わせカード」には「○○中学」の「校庭の」「銅像の横」まで決めること、細かく決めなくてはいけないと考えて作った。
このカードはイオン時代に全国のボーイスカウト連盟との「防災キャラバン」というイベントで配った。
災害はいつ来るかわからない。自然の摂理を読み解くことは不可能に近いかもしれない。だが、「減災」は、われわれの「意識改革」で最小限に抑えることが出来るのだ。せめて、避難所で家族が一緒に過ごすことができれば、少しでも乗り越える勇気が出るかもしれない。
最後に2人のお父さんがなぜ手をさすったのか、お父さんの避難している図書室へ行ってわかった。そこには灯油のストーブがあった。子どもたちはアルコールランプで暖を取っていた。きっとお父さんは自分だけが暖かい場所にいたことを許せなかったのだろう。
たった200m、災害はその距離で、全く違った場所に変えていく。
【著者】有本幸泰(ありもと・ゆきやす)
現 一般社団法人ソーシャルプロダクツ普及推進協会シニアアドバイザー 元イオントップバリュ株式会社マーケティング本部CSR/CSV担当 3・11東日本大震災の際には、被災後2日後に現地入り。小売業として物資配送を行い、 沿岸部中心に避難所を回る。 その後、日本全国の地域の皆さんと防災を考えた街づくりに携わる。 2021年9月10~17日にWEB開催される「第5回災害時の妊産婦支援セミナー」(主催:JFPA)で、特別講演「ボランティアから見た避難所の実際」で登壇する。
第5回:皆さんと出来ること―「命に大きさはない」―(2021年7月28日掲載)